群馬トヨタグループ
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【社員インタビュー】お客様に頼っていただける嬉しさは、営業職の醍醐味であると感じます
【社員インタビュー(群馬トヨタ/営業スタッフ)】群馬トヨタ自動車伊勢崎つなとり店で営業スタッフとして活躍している、土屋貴博さん(2024年入社)にインタビューしてみました!-----------------------------------------------------------------------------Q,仕事の魅力・やりがい この仕事のやりがいは、私という存在が、お客様の生活に関わらせていただけることだと思っております。例えば、お客様との会話の中で私の名前が登場する瞬間や、相談事がある時はまず私にご連絡いただけることなどです。 もちろんクルマをご成約いただいた瞬間も大きなやりがいを感じますが、お客様にとってなくてはならない存在になれたと感じる瞬間は、本当に嬉しく営業職の醍醐味であると感じます。今後も、お客様に頼っていただける営業スタッフを目指していきます。Q,入社して成長したこと 以前より、人とのコミュニケーションに自信を持てるようになりました。もともと人と話すことは好きで、車も幼い頃から興味を持っていたのですが、お客様との会話の中で勉強になることがたくさんありました。こうした気付きをきっかけに車の知識に関してはさらに前向きに学び、商品知識以外にも、日常生活における情報やニュース、トレンドなども積極的に取り入れるなど、自分の引き出しを増やすよう努めました。 そのおかけで、お客様はもちろん、社内のコミュニケーションも円滑に取れるようになり、業務もうまくいくことが多くなったと感じています。Q,働く環境について 当社は、研修制度が充実しています。入社してすぐはもちろん、2年目、3年目と年次が上がっても定期的な研修が用意されています。営業スタッフは約3ヶ月の新人研修後、「エルダー制度」というマンツーマンで先輩社員が指導してくれる制度があります。仕事をしている中でわからないことは必ず出てきますが、エルダーの先輩がいるおかげで安心して業務を行うことができます。-----------------------------------------------------------------------------今後も群馬トヨタだけでなく、ネッツGTG,トヨタレンタリース群馬、トヨタL&F群馬、各社の社員の紹介をしていきます。また現在群馬トヨタグループでは、27卒向けに会社説明会を行っております。少しでもご興味お持ちいただきましたら、下記URLより採用公式LINEのご登録、イベントのご応募お待ちしております!https://liff.line.me/1656261813-nqK8pNkz/landing?follow=%40791mudav&lp=6MAJWr&liff_id=1656261813-nqK8pNkz
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マイカーの普及で群馬は"自動車王国"へ
■ マイカー時代の到来 ― モータリゼーションの波1967年、日本の自動車保有台数は1,000万台を突破しました。自動車が一部の人のものから、一般家庭へと広がり始めた時代です。【写真:中古車センター】同年、群馬トヨタは問屋町営業所を開設。中古車の需要も高まり、太田・渋川・前橋・高前バイパスの各営業所に中古車センターを設置しました。当時は新車の供給がまだ十分ではなく、価格面でも手の届きやすい中古車は、「まずは自家用車を持ちたい」という家庭にとって現実的な選択肢でした。こうした背景から中古車市場は大きく拡大し、群馬トヨタでも専門拠点を整備していきます。また同時期には、関連会社としてトヨタレンタカーサービス群馬(現在のトヨタレンタリース群馬)を設立。自動車を「所有する」だけでなく、「借りて使う」という新しい利用スタイルにも対応していきました。■ 道路が広げた行動範囲 1960年代から70年代にかけて、群馬県内では道路整備が急速に進みました。1966年には国道17号の高崎前橋バイパス(通称・高前バイパス)が開通。 高崎市並榎町から前橋市石倉町までを結ぶ全長約9kmの幹線道路で、両都市間の移動は大きく改善されました。 こうした道路整備とともに、マイカーは人々の生活に急速に浸透していきました。 通勤や買い物、家族での外出など、日常生活の行動範囲は大きく広がります。この時代、とくに人気を集めたのが小型乗用車でした。扱いやすく価格も比較的手頃なことから、多くの家庭でマイカーとして選ばれるようになります。1976年には群馬県の人口当たり自動車保有台数が全国一となり、本県は「自動車王国」と呼ばれるようになりました。■ 来店しやすい販売へ ― 営業スタイルの転換【写真:オープン展示場の様子】マイカーが一般家庭に広がるにつれ、お客様の生活スタイルも変化していきました。それまで営業所は平日と土曜日を中心とした営業で、販売活動もセールスマンが自宅や職場を訪問して提案する訪問販売が主流でした。しかし共働き世帯の増加などにより、「休日に家族で車を見たい」という声が高まっていきます。こうしたニーズに応えるため、1979年に日曜営業を開始しました。さらに1983年には、渋川・前橋・桐生の各営業所にオープン展示場を相次いで開設。 オープン展示場は、「気軽に立ち寄り、実際に車を見て選べる」環境を整えることを目的としたものです。訪問販売に加えて来店型販売を強化したことで、より多くのお客様に車を身近に感じてもらう機会が生まれ、販売実績の向上にも大きく貢献していきました。次回は、現在の群馬トヨタビル(高崎市東町80)の完成等についてお話いたします。白黒写真が続いてましたが、ついにカラー写真が登場します。(笑)
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成長への礎 ― 新社屋の建設と営業スタイルの転換
■ 前回までのあらすじ戦後間もない1946年。群馬トヨタは、トヨタ自動車の群馬総代理店として産声を上げました。自動車も燃料も配給制だった当時、私たちの仕事は「車を売ること」よりも、物流や仕事を止めないための修理を通じて、地域を支えることでした。やがて販売活動にも取り組みながら、「地域の暮らしを支えたい」という想いを軸に、群馬トヨタは次の成長期へと歩みを進めていきます。■ 成長への基盤づくりと、新社屋の完成1953年、資本金を1,000万円へ増資。事業拡大に向け、新社屋の建設を開始しました。【写真:新社屋の完成】1954年、創業以来の宿願であった新社屋が完成。その建物規模は当時、北関東一を誇り、社名のネオンサインは遠く10里四方からも望むことができました。道路に面した社屋は、全面ガラス張りの屋内型ショールームを備え、らせん階段や広告塔、サーチライトを設置。サービス工場には柱のない約400坪の大空間を確保するなど、当時の商業建築の先端を行く、モダンな造りでした。この新社屋は、地域に根差す企業としての存在感を示すと同時に、群馬トヨタの次なる成長を支える、新たな拠点となりました。■ 国産高級車の誕生1955年、日本初の本格的乗用車としてトヨペット・クラウンが発売されました。以後、「クラウン」は国産高級車の代名詞として、その存在感を高めていきます。【写真:トヨペット・クラウン】当時はまだ、乗用車が誰もが手にできる存在ではなく、購入できるのは主に大企業の経営層などに限られていました。それでも、クラウンの登場は、日本に本格的な乗用車時代の到来を告げる出来事でした。■ 営業スタイルの転換 ― 訪問型営業の始まりトヨペット・クラウンなどの発売を機に、セールスマンに初めて「サービスカー(小型トラック)」が導入されました。これは、現在でいう営業車にあたるものです。それまでの内勤や来店対応を中心とした営業から、セールスマン自らが車でお客様のもとを訪ねるスタイルへ。こうして、地域に密着し、一軒一軒と向き合う「訪問型営業」が本格的に始まりました。■ 高度経済成長とともに、組織は拡大へ1955年から1965年にかけて、日本は高度経済成長期を迎え、自動車販売業界も急速な成長を遂げました。当社の従業員数も、1955年度の115人から1965年度には382人へと増加。1955年半ばには、販売の主軸もトラックから乗用車へと移行していきました。■ 業界に先駆けた、営業拠点の展開1960年7月、本社以外で初となる営業拠点「太田営業所」を開所。これは県内ディーラーとしても初の営業所であり、当社は拠点展開の先駆けとなりました。この動きを契機に、県内では各ディーラーが相次いで営業所建設に乗り出し、営業拠点を広げる流れが生まれていきます。■ 人材育成を軸に、次なる成長へ1961年、創立15周年を迎え、販売力強化を目的に新入社員40名を採用。当時の初任給は8,500円で、入社後1年間は学生服で出社するのが通例でした。1963年には報奨金制度を強化するとともに、資本金を5,000万円へ増資。さらに北毛地区の拠点として渋川営業所を開設するなど、体制整備を進めていきます。あわせて、新入社員を3泊4日で自衛隊に入隊させる独自の研修を実施。人を育てることを成長の軸に、次の時代への準備を整えていきました。【写真:自衛隊での研修の様子】次回は、中古車センターの開設や日曜営業の開始についてお話いたします。
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戦後の群馬で、私たちの物語は始まりました
■ 戦後復興の始まりと、群馬トヨタの誕生終戦から、まだ1年あまり。街には復興の兆しが見え始めたものの、道路事情は悪く、自由に車を使える時代ではありませんでした。1946年10月2日、そんな戦後復興の曙光のなか、私たちはトヨタ自動車の群馬総代理店として 「群馬トヨタ販売株式会社」 の名で産声を上げました。社屋は、「山田興業株式会社」の自動車部および工場をそのまま活用したもので、当時働いていた従業員も引き継ぎながら、社員総数38名、役員8名でのスタートでした。■車を売る前に、地域を支える仕事当時は、自動車も燃料も統制による配給制。街を走る車といえば、木炭を燃料とする木炭車が、わずかに見かけられる程度でした。そのため、創業当初の主な仕事は「車を売ること」ではなく、トラックの修理。物流や仕事を止めないために、地域の足を守ることが、私たちの役割だったのです。【写真:小型トラックSB型 発表】1947年になると、トヨタ自工(現在のトヨタ自動車株式会社の前身の一つ)から普通トラックBM型や小型トラックSB型、小型乗用車SA型が次々と発売されます。群馬トヨタでも、小型トラックSB型の移動展示会を開催しました。しかし、自動車は依然として配給制のまま。1台の車に200人余りのユーザーがつき、年間で販売できたのも約70台という時代でした。■ 社名の変更と新たな挑戦へ1948年には資本金を増資し、社名を現在の「群馬トヨタ自動車株式会社」へ変更。さらに、新たに発売された42人乗りの低床式バスを活用し、「群馬産業バス」を設立します。前橋・高崎・桐生から銀座までを結ぶ直通便を走らせ、“人の移動”を支える新たな挑戦にも踏み出しました。【写真:県保健所へSBトラック大量納車】同時に販売面でも動きが加速します。前年に発売された小型トラックSB型を、県の保健所へまとまった台数で納入するなど、販売台数は倍増。地域の公共サービスや仕事を支える存在として、私たちの役割は着実に広がっていきました。■ 販売活動の自由化へ1949年、乗用車の生産制限が解除され、少しずつ暮らしに変化が生まれます。そして1950年、ようやく自動車の配給統制が全面廃止され、販売活動の自由化が実現。この年を境に、木炭車に代わり、ガソリン車が徐々に街に増えていきました。まだ制約の多い時代でしたが、「地域の暮らしを支えたい」という想いを胸に、私たちは一歩ずつ前へ進んできました。次回は、新社屋の建設や営業スタイルの転換など、今の働き方につながる出来事についてお話しします。